言葉は難しい
言葉は難しい。
学べば学ぶほど、それは扱いの難しい、厄介な凶器に成り果てる。
愚者が言葉を振りかざす一方で、賢者は沈黙を選ぶのは、その扱いの難しさを知ってしまったからなのだろうか。
それでもなお、私は言葉を紡ぐ。
紡ぎたいと、切に願う。
言葉が、人を傷つけ、時には自分さえも傷つける、危険な刃物であると分かっていても。
私は、言葉を、使いたい。
賢者の、その先へ。
賢者を経て、私はまた愚者に返り咲く。
世界解釈不一致同担拒否オタク
世界を解った気でいる人間に、腹が立つのは何故だろう。
それは、私が未熟だからなのだろうか。
私もまだ、この世界の真実を掴めていない。その姿形さえ、把握していない。
答えが、近くにいるのか、それとも果てしなく遠い場所にいるのか。その距離感さえ、測り損ねている。
ただ一つ、ほんの少しだけ解ったことがある。
私が、世界を偉そうに語る輩に、無性に腹が立つ理由。
それは、彼らが他の解釈を見下し、否定するからだ。
自分勝手な理論を振りかざし、他者の理論を否定する。そんな奴らに腹が立って、何が悪い。
私は、私の手でこの世界の真実を掴み取ってやる。
そしてそれは、私だけの真実だ。
お前らなんかに、理解されてたまるかばーか。
酒を飲み、小説を語る
誰だって、薄汚く躾もされてないような獰猛な野犬よりも、毛並みが綺麗でよく躾された賢くて可愛い仔犬を選ぶ。
ペットの話か?いや、違う。小説の話だ。
世の中でベストセラーと呼ばれる作品とか、ドラマ化映画化される作品ってのは後者。つまり、可愛らしい仔犬の方だ。
ダメ押しで「○○賞受賞!」と言った具合に血統書をつけてやれば、それはもう飛ぶように売れる。
そう、現代人は忙しいのだ。誰も、野犬を躾して風呂に入れてやり、その毛並みを整えてやるだけの時間なんてありゃしない。
そんな手間隙をかけるくらいなら、既にパッケージングされた、完成品を選ぶ。
同じ金を払っているなら尚更だ。
別にそれが悪いことではないが、そういった輩が小説を語るというのは、どうも気に食わない。
なんでかって?さぁな、それは俺にも分からない。でも気に食わないのは事実だ。
さて、ちと話しが逸れるが、俺は最近あることに気づいた。
それは、野犬であっても、血統書をつけてやればそいつはそれなりに売れるということだ。
つまり、難解で到底一般受けは望めなさそうな小説であっても、そこに「○○賞受賞!」と書いてやれば、面白いことに売れるのだ。
陳腐な例であることは分かっているが、『コンビニ人間』なんかは分かりやすい例じゃねーか?
しかし、野犬に血統書を付けると、今度は小説を知った気になっている輩が、「○○賞は質が落ちた。○○賞には価値がない」等と抜かしやがる。
逆だ逆。むしろ○○賞はその価値をよくわかっている。
ここで一つ。誤解してならないのが、よく飼い慣らされた綺麗で可愛らしい仔犬だけに血統書を付与する賞に価値がないってわけじゃあない。
それにはそれでまた、一定の価値があるってことを肝に銘じておくべきだな。
「行動」は「人格」に先行するッ!!!
行動の後に心持ちが付いてくるのだ。
立派な人だから寄付をするのではない。寄付をするから立派な人になるのだ。
優しい人だから人の話を聞いてくれるのではない。人の話を聞いてくれる人だから、優しい人になるのだ。
全ては行動が先に起こり、その結果として心が付いてくる。
これは、革命だ。全人類に希望を与える、これ以上ない幸福な真理だ。
なぜなら、全人類はみな、各々がなりたい人間になることが出来るということだからである。
自分がこうなりたい、と感じる人の真似をすれば良い。
それはちょうど、小さな子どもが戦隊ヒーローやプリキュアになりきり、さも自分がそれらになったかのように振舞って、親により深い没入感を得るために敵役を頼むのと全く同じことである。
近所にて
「お風呂の後にさ、バッティングセンター行く?」
実家に戻って、夕時に家の周りを散歩していたら、自転車に乗った小中学生の集団が横を通り抜けていった。
一瞬だけ、この世のものじゃない空気感に襲われて、少し懐かしい感覚に陥った。
息苦しい、生きづらいと感じながらこの時勢を生きている人が多い中、子供はいつだって自由なんだとそう思わされた。
ええなぁ…
転売ヤーから買わない。それあんまり意味ないよ
これは一見、有効な運動のように思えるが、実はそんなに意味がない運動だ。
理由
まず、転売を組織的にやっているグループは、転売商品を多数扱っている。
そのため、多くの転売商品の一部で利益が思ったように上がらなくとも、全体的に見れば十分利益が出るように動いている。
そのため、「特定の商品を転売されにくくする」。または、「転売商品を一種しか取り扱っていないような個人転売ヤーに対して打撃を与える」といった効果は見込める。
しかし、組織的な転売ヤーに対して大打撃を与えることはできず、結果として意味のある運動にはなりにくいのだ。
疑問
それなら、全ての転売商品に対して、全員が不買運動を起こせば転売ヤーは絶滅するんじゃないか?という疑問もあるだろう。
しかし、これは残念ながら現実的ではない。
その理由の一つは、不買運動は、少なからず運動を起こしている側にも痛みを伴う運動だからだ。
不買運動は諸刃の剣であるため、継続し続けることが難しい。言うなれば我慢比べだ。
このとき、「どうしてもそれがほしい一般人」VS「儲けられれば何でもいい転売ヤー」ではどうしても後者に軍配が上がってしまう。
転売ヤーは最悪、仕入れたものを仕入れ値で売れればダメージは0に出来る(厳密には少しダメージを負うけれど)。
そして、不買運動に疲れた一般人らも、「定価と同じ価格なら買っていいか……」と買ってしまう(人が増える)。
結果、転売ヤーにダメージを与えられないばかりか、こちら側が無駄に消耗させられるという悪手を打ってしまうことになるのだ。
そもそも
それに、組織的な転売ヤーと我々一般人では戦力の差が大きすぎる。統率の取れた軍隊に対して、民兵がバラバラに挑むようなものだ。
我々は団結することは出来ても、組織することは出来ない。
組織に勝てるのは、その組織以上に統率が取れた、でかい組織なのだ。
つまり、企業か国である。
だが、企業が転売対策に乗り出すかは微妙なところだ。
企業としては、転売ヤーに買い占めてもらうことで、少なくとも初動を安定させることが出来る。
これをメリットとして捉えてしまっている側面があると、積極的な転売対策に乗り出す可能性は低い。
もちろん、賢明な企業であったり、力のある企業は転売対策に力を入れるだろう。
しかし、すべての企業がそういうわけではない。
やっぱり、転売撲滅には国に何かしら動いて貰う必要がある。
心の底から転売対策をしてもらいたいと思う人は、その声を発信し続け、転売対策徹底をマニフェストに掲げる政治家が現れるのを待とう。
追記
プラットフォームに規制を敷いてもらえばいいんじゃね?という考えもあると思う。
しかし、これもあまり効果が期待できない。
転売ヤーが主として使っているメルカリが転売対策の規制を敷いたとしよう。
しばらくの間は効果があるように錯覚するかもしれないが、結局転売ヤーは別のプラットフォームを見つけ出すだけだ。
もし既存のサービスすべてが転売禁止を打ち出したとしても、雨後の筍のようにして転売に使えるサービスが生えてくるだろう。
そもそも、メルカリが転売対策に乗り出すメリットが薄い。
メルカリが転売禁止を徹底させたところで、利益が上がるどころか、転売によって得ていた一部の手数料を手放すことで利益が下がる可能性もある。
「メルカリ転売禁止だって、やるやん!」と、信用は得られるかもしれないが、そう言っている人間がメルカリを利用して利益をもたらすかは怪しい。
それなら現在進行系で利益をもたらし続けてくれている転売ヤーを、わざわざ労力かけて追い出すような規制は敷かないだろうというのが個人的な見解だ。
全知全能の神となれり?
完璧主義は悪いことではない。
しかし、得てしてそれは悪い方向に働きがちだ。
あんたが医者だって言うなら分かる。あんたのミスで人が死ぬかもしれないからな。
だが多くの人にとって、完璧主義はやり過ぎだ。
完璧主義はある事柄に対して、自分はそれを完全に把握し管理できるという、ある意味での驕りから来ているように思う。
そう、完璧主義は一種の傲慢なのだ。
だが、例外は必ず起こる。
自分が原因とならなくても、ありとあらゆる要因が例外を作り出す。
そして完璧主義者は、この例外を受け入れられない。その上、例外によって激しいストレスを受ける。
これが、完璧主義が悪い方に働くということだ。
これを乗り越えるためには、やはり完璧主義を捨てるのが一番のように思う。
つまり、すべてを手中に収めようなどとせず、物ごとに一種の諦めを持つ。
これが、毎日を少し楽に生きるコツではなかろうか。